半径3mの教育論

中学教師の教育雑感記

5802 「勉強」か「啓発」か

呉智英(くれともふさ)さんの「健全なる精神」(双葉社文庫)は,何回読んでも知識が増えます。

さて今回は,教育についてです。

「勉強」という言葉の本来の意味は,勉めを強いることです。

つまり,何らかの強制力が必要だということです。

この本の中で,呉さんは,学校を「強制装置」という言葉を使って説明しています。(p80)

確かに,学校は,(行くたくもない)子どもを一か所に集め,(好きでもない人間と一緒に)学級に所属させ,(受けたくもない)授業を受けさせ,(好きでもない)給食を食べさせ,(やりたくもない)掃除をさせ,(早く帰りたいのに)16時近くまで拘束しています。

まさに,学校は,立派な「強制装置」として働いています。

さて,孔子は教育について,「論語」の中でこう言っています。(p81)

「憤せずんば啓せず。悱(ひ)せずんば発せず」(述而編)

意欲が込み上げてくる(憤)のでなければ,教(啓)えてもしかたがない。答えが喉元まで出かかっている(悱)のでなければ導(発)いてもしかたがない。

つまり,孔子が考えた教育は,「自発性尊重教育」なのです。

上に挙げた話から「啓発」という言葉が生まれたそうです。

この話から,こんなことを考えました。

現在,国が進めている学校教育は,まさに孔子が考えた「自発性尊重教育」だと言えます。

「個性の尊重」

「主体的な学び」

「学びの調整力」

「学び合い」

「表現力」

「思考力」

ファシリテーターとしての教師」

「反一斉授業」

「反詰め込み教育

「知識を重視しない」

などの言葉が流行していることからもわかります。

つまり,現在の学校は,もはや「勉強」という言葉が使えない状況だと言ってもいいでしょう。

まさに,国は学校を,「啓発」をする場にしようとしているのです。

本来,強制装置である組織である学校で,生徒を「啓発」することはとても難しいことだと思います。

その難しいことをやろうとしているからこそ,様々な問題が噴出しているのです。

学校の軸足を「勉強」に置くか「啓発」に置くかはっきりさせない限り,学校の迷走は続くのです。