「生徒が主体的に対話的に活動する授業」という文があります。
この目標にある3つの語句を考えてみます。
①生徒が主体的に活動する授業
「主体的」とは,広辞苑によれば
他のものによって導かれるのではなく,自己の純粋な立場において行うさま。
この意味通りに考えるならば,教師が生徒を導くことをしない授業ということになります。果たして,このような授業を行って学力が身につくのでしょうか。生徒に任せきりにすると,好き放題にすると思います。
②生徒が対話的に活動する授業
「対話」とは,広辞苑によれば
二人の人がことばを交わすこと。会話。対談。
ここでいう,2人とは誰のことを指しているのでしょうか。
生徒と生徒
生徒と教師の2つのパターンが考えられます。
しかし,主体的と前置きがありますから,ここではやはり,生徒と生徒が会話をしながらすすめる授業のことでしょう。
③活動する授業
学習ではなく,活動という語句を使っているのはなぜでしょうか。
先日もこのブログで書きましたが,あまりにも活動に力点を置くと「活動あって学びなし」に授業になりかねません。
野口先生がいつも言われることですが,授業の主体は教師であって生徒ではありません。
教師が意図的に説明し,発問し,指示を出し,作業をさせ,フォローしながら,1時間の目標を達成させるのが授業です。
1時間を生徒の主体性に任せ,生徒同士の対話で活動する授業で,どのような学力が身につくというのでしょうか。
「主体的」「対話的」などという、意味触りの良い流行の言葉に振り回されるのではなく,教師が授業とは何かという根本を考え,1時間の授業でどのような学力を身につけさせたいのかを考えなければいけないと思います。
上のような目標で授業づくりを行っても,結局,見世物的な授業になってしまうのです。