半径3mの教育論

中学教師の教育雑感記

3074 主体的に「主体的「について考える

今日も朝から駅伝練習につきあい,その後は,部活の練習でした。幸いにも午前中でしたから体育館内の暑さもまだまだ我慢できる範囲でした。
さて,昼食をとった後で道徳推進教師研修会に参加しました。
講師は,国立教育政策研究所教育課程研究センター基礎研究部総括研究官の西野真由美さんでした。
講師の紹介の時に,「道徳のチカラ全国大会」という言葉が出た時は,ちょっと驚きました。
過去,公的な研修会でうちのサークル名が発表されたことはなかったからです。
さて,研修の内容です。
100名近い参加者に6名程度の班をつくらせ,道徳科に向けてどんな悩みや疑問があるか意見交流をさせました。
その中のいくつかを拾いながら,答えて解説していくという時間があり,講師との距離も近くなり意見も出しやすくなりました。
講話の中で,頻繫に使われた言葉の1つに「主体的」があります。
例えば,主体的に考える,主体的に議論する,主体的に学習するなどです。
つまり,「主体的」がよいものとして使われているのです。
野口先生も言われていましたが,耳障りのよい言葉には気をつけたほうがいいと思います。
確かに「主体的」という言葉は,プラスのイメージが強いです。
しかし,ここで立ち止まって考えてみました。
広辞苑には,「主体的」とは,「他のものによって導かれるのでなく,自己の純粋な立場において行うさま」。とあります。
ということは,
「主体的」に考えるということは,自分勝手に考えるということです。
「主体的」に議論するということは,自分勝手な意見を言い合うということです。
このような道徳授業が果たしてうまくいくのでしょうか。
他のもの(他の生徒や教師)に導かれるのではなく,自分が言いたいことを言い,やりたいことをやり,書きたいことを書く授業を良しとしているのです。
授業とは,教師が生徒を目標に導くものではないのでしょうか。
全生徒が主体的に授業に参加することで,授業の目標が達成できなくなる危険性はないのでしょうか。

プロ教師の会の諏訪哲二さんも言っていましたが,現在の子供は幼い頃から自我が確立しているように扱われるのです。
この「主体的」という考えも,生徒の自我を優先させる考えなのです。
子供に自我が確立していると誤解させる教育が,子供を「オレ様化」させているのです。