半径3mの教育論

中学教師の教育雑感記

2524 正しく叱られない教師

教員として30年間にわたり学校現場を見てきましたが,最近思うことは,正しく叱られない時代になったということです。
つまり,先輩教師が後輩教師を指導し,鍛えるために叱ることが少なくなったということです。
私が若い頃は,未熟な私を正しく叱ってくれる先輩教師がいました。
叱られた時は,反発心も湧きましたが,今では私のことを心配して叱ってくれてたのだと思うようになれました。
叱るという行為は,相手のことを考えているため想像以上にエネルギーがいるものです。
叱るという行為の裏側には,愛情があるのです。
叱ると似ている「怒る」は感情に任せた行為ですから愛情はありません。
これが分かっていないと相手は不信感が生まれ反発心が湧くのです。
その人のことをどうでもいいと思っていれば,叱りません。
愛情の反対は無視ですから。
無視ほど相手のことを粗末に考えていることはないのです。
正しく叱る教師が必要だと思っているのです。
教師を育てるということは,職人を育てると似ているものです。
職人は師匠や兄弟子から厳しく叱られます。怒鳴られます。
こんなことを繰り返しながら,一人前に育っていくのです。
ですから,叱られない教師が増えていくことに,不安を抱えているのです。

立川談志の弟子である立川志らくさんが,前座修業時代のことを次のように語っています。
〈引用始まり〉
「私は音楽家の両親の間で,のほほんと育ちました。わがままなお坊ちゃんでした。こんな矛盾に満ち,ひたすら叱られ,怒鳴られ,耐えなくてはならない前座修業など考えてもいなかったつらい期間でした。しかし,この修業時代を耐えたという経験が,その後いろいろな壁にぶつかっても,へこたれない力になったのです。人生で耐えることは大事なことだと思います。
両親が音楽家なので,自由であること,映画や音楽へのセンスなど下地はつくられていました。でも「耐える教育」というものはいっさい受けたことがない。ですから,ものの考え方やひねくれたところまで,すべて私をつくりあげたのは談志だと思っています。」
〈引用終わり〉
(「5人の落語家が語る ザ・前座修業」(稲田和浩・守田梢路 NHK生活人新書)