半径3mの教育論

中学教師の教育雑感記

4092 道徳授業で「死」を扱うこと

今までいろいろなセミナーや研修会で道徳授業で「死」を扱うことに慎重であるべきと言ってきました。この考えをもつきっかけになった要因の1つに深澤久先生の言葉があります。「道徳教育改革 第1号」(2007年1月)に掲載されたもので、2005年11月に佐世保で開催された「オール九州道徳教育改革セミナー」の講座での話です。
〈引用始まり〉
例えば今日の講座でいくと、自殺の数が出てきて、それが授業でどうだというのがありましたけど、私は疑問ですね。とても疑問だと思うんです。つまり、その授業は一体何のためにやったのかというところを是非ともお聞きしたいんです。それでね、想像すると次のようなことかな?と思います。想像ですよ。1つ考えられるのは、「自分の命、生命を大切にしなさい」というメッセージを子供たちに伝えたいから。こういう想像ができます。あるいは、「少々の困難に負けずにたくましくいきてゆけ」というメッセージを伝えたいのかもしれない。となると、こういう授業、こういうメッセージを伝えたいんであれば、わざわざ自殺のデータを出す必要はないのではないかと、私は思います。つまり、何か理由があって命を絶っているのわけだから、その人なりに苦労があって悩み抜いた結果ですよね。データ、数字にすると一人一人がそれなりに一生懸命に生きてきて、それで自分の判断で「もう生きていけない」と命を絶ったんですから、もし授業をするんだったらその人に聞くべきなんです。何であなたは死んだのか?心だ人は答えないですけど。そういうことを「基礎研究」と私は呼んでますけど、そういう部分がないところで資料を出すというのはどうも感覚的に合わない。だからもうちょっと「生命を大切にしなさい」という事を伝えたいんであれば、プラス思考でネガティブにやっちゃわずポジティブな方法で「生きているということは素晴らしいんだよ」「人間の生命の可能性はこんなにある」「今はこうだが10年後は変わるかもしれない」と言えるようなものを出したほうがいいという考えです。
〈引用終わり〉
佐世保市では毎年「命を見つめる教育週間」で道徳授業を公開していますが、「死」や「病気」や「障害」を扱った教材を使用する先生が非常に多いのが現状です。どうして、その教材を扱うのか、ねらいを達成させるためには、絶対にその教材でなければいけないのか、本当にその教材が有効なのかを熟考して欲しいと思います。