半径3mの教育論

中学教師の教育雑感記

2022 君は指導案を読んで震えたことがあるか

来週12日に行う道徳授業公開に向けて準備をしています。
今日,ようやく指導案が完成しました。
当初,略案を書く予定でしたが,いざ書き始めると書く内容が多くなり,結局,指導案として完成させました。
指導案とは,文字通り指導の流れを書いた授業計画書です。ですから,普通は,指導過程(授業の流れ)に注目する教師が多いと思います。しかし,本当に大切なのは,主題観(題材観)だと考えています。この主題観には,教師の考えを書くことになります。しかし私が見てきた指導案のほとんどは,指導要領の文章を借りてきたり,どこかの書籍の文章を少しだけ変えたりしたようなものでした。そのような主題観を読んでも,何の感動もありません。
ところが,野口芳宏先生の指導案を読んだときに,震えてしまいました。その理由は,主題観の中に,野口先生の教育哲学が書かれていたからです。まさに本音の主題観だと思いました。その部分を紹介します。(『硬派・教育力の復権と強化』明治図書

〈引用始まり〉
(前略)
そもそも「いじめ」の根絶は可能であろうか。私は,それは不可能であると考える。それは善悪の問題ではなく。人間の避けがたい「業」であり人間が存在する限りについて回るものなのだ。無論「いじめ」を極力減らす努力はしていかなければならない。しかし,それだけに頼って解決を望むことでは甘すぎるのではないか。この世に「悪」がなくならないように,「いじめ」もまたなくならない。残念なことだが,それが現実である。そうであるならば,そういう現実の中でどのように「生きる力」を育てていくべきなのか,そこのところの「強い」教育も必要なのだ。
ところが,今までは誰もがそれに関しては禁句として口を噤んできた。本当に教えなければならないことから逃げてlきた。なぜ逃げてきたか。その答えは簡単である。それは,「奇麗」ではないからだ。教育界ではとかくこの「奇麗ごと」が幅を利かせ「本物」や「本音」が片隅に追いやられがちである。また,そのように振舞って安易にことを済ませようとしてき教師のエゴイズムもに見逃すわけにはいかない。
本当の勇気を持たない教師の,奇麗ごとや建前論で糊塗された授業や教育が子供の胸に届くはずがない。私は三十分というこの子らとの束の間を,胡麻化しのない出会いとしたいと思う。
(後略)
〈引用終わり〉

今,こうやって本を読みながら書いていても,震える文章です。野口先生の本音がビシビシと伝わってきます。
私も,教師でいる間に,他の教師が震えるようなしびれるような指導案を書いてみたいと考えています。
そういった意味でも,1年間に1度は指導案を書くようにしています。

今日,完成した指導案を全職員に配布しましたが,反応があったのは,たった1名でした。
まだまだです。修行を重ねます。